pray
10 years
凄く幸せとも凄く不幸せとも言える10年。
何だか過ぎてしまえばあっという間だった。
紫陽花
「きれい」
「きれいだね」
「来て良かったね」
「うん」
我慢
私はある一つのことに我慢強いほうだ。
その「ある一つ」というのは、世間でいう「愛」と言われるもの。
昔、我慢しなかったせいで
愛する人を
振り回し、疲弊させ、壊しかけた過去がある。
壊れかける瞬間になって
漸く自分のしていることを客観的に見れた。
何故今の今までそんなことが
顔色一つ変えずにできていたのか
自分がおぞましく怖かった。
私は振る舞いを改めた。
最終ラインを越えない限りは極力自分の意思を遠ざけた。
「仕様がないよね」とか
「気にしないでね」とか
「大丈夫だから」とか
そんなことばかり言っていた。
でも、心は全然コントロールできない。
会いたい想いが募る
声が聞きたいと叫ぶ
触れていたいと泣く
こんな状況にしたのはお前なんだと叱咤する。
そんなことが、続く。
これからも続く。
それでも手を放すことができないの。
許してね。
上っ面の我慢ならまだ大丈夫だから。
だから許してね。
この我儘だけは許してね。
我慢できなくて、ごめん。
本当に欲しいもの
年を重ねるごとに「好き」が
理解できなくなる。
自信がなくなる。
「好き」だとか「愛してる」とか確かに想っていたはずなのに
いつの間にか、フワフワしたものに変わっていってしまってて
曖昧になってて言葉にできなくなる。
自分に言い聞かせるように口に出したら余計に嘘っぽくなった。
「好き」とか「愛してる」とか
10代のときには直感的に言えてたし
それで十分で楽しくって、幸せだった。
こんな悩むことじゃなくて、悩むことといったら相手がどう想ってるとかそんなこと。
すごく良い意味で軽かった。
戻りたくもあり、戻りたくない。
本当に欲しいのは
愛される自信とか、そういう種類なのかもしれない。
それがちゃんと飲み込めたのなら、疑わずに「好き」とか「愛してる」とか言える気がする。
好かれるとき
人に好かれるのは苦手だ。
好かれるっていうのは、つまり有り体に言えばlikeでなくLOVEの方。
たまに奇特な人がいて、アプローチしてくれるときがある。
女冥利に尽きるし、その人にとっては魅力的に感じるというのは
こそばゆくて嬉しいのだけれど
同じぐらい苦手だ。
なので、自意識過剰とか勘違い女とか上等精神で
「気になる」とかいう辺りから警戒し始める。
で、相手が褒めたりするところを悉く否定する。
「普通ですよ」
「偏屈ですよ」
「面白くないですよ」
「そんなことないですよ」
延々と滔々と。
それでも「気になる」から進んでしまうときがある。
そういうときに決まって私は相手を試し始める。
如何に駄目人間であるか、とか
如何に欠落しているか、とか
如何に今あなたの目に映ってる私が私でないか、とか
否定に否定を重ね続けて、結果、私一人が落ち込む。
そんな純粋な目で見ないでくれ。
そんなに私を信じないでくれ。
私は、当たり障りのないことや
きっと言って欲しいだろうことや
叱って欲しいだろうことを
さも分かってますよってな顔で垂れ流してるだけであって
それはあなただからじゃなくて
優しいからじゃなくて
甘いからじゃなくて
ただ、八方美人なだけなんだよ。
一人になると反省会は続く。