アイデンティティ

なかなか素直に生きることは難しい。
というか、苦手だ。

周囲にとってこうでなければならない、とか
こういう返事をしなければならない、とか
こんなリアクションをとらなけれならない、とか

そんなことが積もり積もって
私が形成されている。

つまり、対面する人にあわせて生きている。
それを
「ムードメーカー」だとか
「自己犠牲」だとか
そんな風に表現されるらしい。
悪い意味で。
全く報われない。

でも、もうそれが何だか慣れきっちゃって
普段で普通で通常でありのままで
何だか取り返しがつかなくなってるみたい。
それで結局身動きが取れなくなって
自分の首を絞めて、不幸の道を辿っても
何だかんだ言って受け入れるような気がする。
一種の諦め?

だから、総括して
いろんな顔がある自分が自分であるという
アイデンティティにしようとしてるっぽい。

「ああ、もういいんだよ」
そんな上っ面の薄い言葉を囁かれて
何だか居心地が悪かった。


不変への愛

ワタシはみんなができることが出来ない。

毎日メイクもできないし
ヘアアレンジもできない。
ネイルケアやヘアサロンに行くのも億劫で
センスもへったないし
部屋で服も着れないし
(つまり裸族)
会社勤めも出来ないし
出来ないことが山のように積み上がってる。

それでも毎日が変わらぬ毎日であるように
小さなマイルールを積み重ねてきた。
朝起きればカーテンを開け
朝ごはんはフルグラとソイラテ
仕事が一段落すれば何か作り
食べられるものだけでそれなりのものを作って
洗濯物を綺麗に畳んで
少し自分の時間をゆっくりして
お風呂にイヤイヤ入って
丁寧にベッドメイキングして布団に潜る。
そして脳内反省会の開始。
答えは毎回でないけれど。

それで一日は保たれる。
でも生きていてイレギュラーなことがゼロなんて許されない。
許されない。

だから、またワタシはいつも通りに振舞うのだ。
真実味が増しちゃうから誰にも話さず
目の前を泳ぐ
日常を掴み取る。
それしか方法がなくて
ようやく10日経って戻ってきた気分だ。

もし、これをこなせずに
日常を逃してしまったら
上手く生きれない。
ワタシの毎日がガラガラと音を立てて崩れ去ってしまう。
ワタシだけに留まらず、きっと愛する人は涙を流すだろう。

それだけは避けたくて避けたくて
今、均衡を保ってる。
あの、マイルールだらけの不変の道へ。

ワタシが一番ワタシという人間を知らないのかもね。

雨の中

久々に雨に打たれた。

ずっとずっと雨に降られることがなくて

傘なんて持ち歩く習慣がなかったから

(あと、よく置き忘れるのも一因)

途中で買えば良かったんだけど

何となくそんな気になれなくて降られてみた。


ぶっちゃけ、琴子ごっこしたかったってのもある。

まぁアレは映画だから画になるワケであり公道でイキナリ踊り出すことなんてできないわけで

結果はただ、ずぶ濡れで歩く女。


すれ違ったランドセルを背負った子どもに避けられたので

明日あたりに都市伝説もどきになってたら

それはそれで面白いなーとか考えながらずぶ濡れで歩く。


歩き慣れないから注意散漫で水溜りに足を取られる。

ストールで頭を覆っても髪から滴り落ちる雨。

お気に入りの皮の鞄は雨に打たれて変色してゆく。

雨音よりイヤホンからのミュージック。

冷たくなっていく身体。


何だか莫迦らしくなって

それでいて新鮮で

ゴチャゴチャしてた思考回路に光がさしたみたいだった。


スッキリした。

年を重ねる毎に夢を見る夜が
減ってきた気がする。

それに加えて
夢の内容も随分変わった。
これも「気がする」なんだけれど。

昔の夢はもっと夢らしくて
空を飛んだり
逢うことのない人と逢えたり
行くことのない場所へ行けたり
世界を変えたり
殺したり死んだり
あり得ないことを可能にする夢を見てきた。
ザ・夢。

ここ最近の夢は
仲の良い子と話したり
(話の内容も近況だったり至って普通だ)
どこか現実的な場所へ出かけたり
変わっていく誰かを見届けたり
殺したり死んだり。

最後の「殺したり死んだり」は文字にすると同じだけれど
昔の夢では非現実的だった。
今の夢は生々しい。
そう、すべてが生々しいのだ。

朝の起き抜けだったり
似たような状況に遭遇すると混乱する。
朝には「今のは夢?」
似たような状況には「あの話はした?」

これは結構な苦痛を伴ったりする。
境目がないのはボーダーが引けないということだから
二択問題を迫られるということ。
現実か夢か。

字にしてみると少々大袈裟になってしまったけど
なんとか今のところ夢を見た日はそれなりにやり過ごしている。
あまりの生々しさに打ちひしがれて
どうしようもなく泣き出したいときもあるけれど
そこは大人。
グッと飲み込めるようになった。

なんだ、随分成長してるじゃないか。
そう!
これは「老い」ではなく「成長」だ。
断固としてここは譲らないつもりでいる。



話すということ

私の大事な友達が呟いた。


「話す、ということは、勇気がいること。人に話したら逃げられない「事実」になるような感覚がある。自分の中だけなら、なかったことにできたりするのに。」

(少々言葉尻を変えてます)


そうそう!そうなんだよ。

知らんぷりできるはすだったことが

話すと途端により現実になる。

迫ってくる。


だから私は話さない。

事後報告すら怠るときがあって

そのときはたいそう怒られる。

「なんで相談してくれないの」

とか

「一言言ってくれても良かったのに」

とか。


いえいえ、違うのです。

言う必要がないから言わなかったのです。

それから逃げたかったから言わなかったのです。

それを認めたくなかったから言わなかったのです。

手に負えなかったから言わなかったのです。


と、言おうにも

「話してよ人間」にはきっと伝わらないだろうから

結局これも言わない。


あれもこれも

言わない。


言うのは本当に必要なことや

認めたいこと

覚えておきたいこと。

それを本当に必要な人にだけ。


そうしてるうちに

いつの間にか「聞き上手」の称号を手にしていたりする。


少し本筋から逸れるけど

話すことで昇華する人だっている。

話すことで事実の密度を薄めるというか

他人事にするいうか。

そういった人種を責めたい・理解できないってわけではないことを

言い訳がましく最後に書いておく。

"ともだち"という存在

私には圧倒的に友達が少ない。

知り合いとかそういった類すら

他の人の話を聞いてると

少な目な気がする。


別に不便と思った事もないし

寂しいと思った事もないけど

知り合って間もない人の話をしたときに

「こんな考え方があるのか!」と

ハッとさせられることがある。

良くも悪くも。

そういった意味では

色んな人ともっと積極的に出逢うべきなのかもしれない…

なぁんてぼんやり思ったりもする。


と思いきや、想像してみたらやはり面倒。

私は今の人間関係でいっぱいいっぱいだったんだと再確認させられる。


人間関係といっても

私が思う「大事な人」っていうのは片手さえも余るぐらいの少数で

もう愛しちゃってる。


「大事な人」と話をするのは大好き。

分かり合えなくても

意見が食い違っても

それすらも楽しい。

とても、とても、大事。


でも、ほんとに狭くて深くて

ある意味幸せて

とても不便だ。


こんな悩みは贅沢なんだろうか。

でもそれぐらいがちょうど良い気もする。


だから「大事な人」よ

もうちょっと付き合ってよ。